浜田省吾さんの映画「A PLACE IN THE SUN at 渚園 Summer of 1988」を観た

浜田省吾さんの渚園映画を観に行った。とても良かった。

もちろん、オープニングから何もかもが掛け値なしに良い。
風をはらんだ白い幕の下で、まるで祈るように右膝をつき、俯いた顔と聞こえぬ言葉を呟く口元は、見た人全員の印象に残っただろう。
そして「路地裏の少年」は青空に遠く響いてこそ、爽やかで切ない。
まあそれらは私から今さら何をか言わんやというところ。

 

さて、浜田省吾さんの何が好きかといえば、理性的なところだ。

大勢の観客が熱気冷めやらぬまま、拍手がやまぬまま、「ありがとう!」と言って去るステージ上の人はどのような気持ちなのだろう。
シンガーソングライターという職業人として、観客を大盛り上がりさせるだけさせておいて、日常の煩わしさを一瞬でも忘れさせたのならそれだけで大成功ではないか。
と、ステージ下で騒ぐ人は思う。

 

映画を振り返って1番考えているのが、アンコールの「DARKNESS IN THE HEART」についてだった。


この曲で歌われる内容は、ステージが終わった後のミュージシャンの姿である。浜田省吾さんの曲のなかで同様のテーマが歌われる曲は他にもあるが(「ミス・ロンリー・ハート」とか)、雰囲気の明暗差は著しい。
歓声はとうの昔に過ぎ去った夢であったと言いたげで、次の街に行く道の夜闇と、心の奥の暗闇が重なり合いながら車は走る。そんな車の窓に映るのは、既に逝った父、によく似た自分自身の顔、だ。

 

華やかな舞台に立つ人は、やはりどこか浮世離れしたイメージが先行する。つまり、一般社会とは隔絶されて生きていて、一般の人間とは違うのだろうと想像される。
そうした人達がどのようなスタンスで自分自身を魅せるかは個性によるところが大きい。徹底的に夢を見せる方向もあるし、その一方で現実の社会に生きる人間の姿を見せ、歌うのが浜田省吾さんの曲たちである。

浜田省吾さんの曲で、よりわかりやすく社会問題をテーマにするものは数多い。

しかし、肉親というのは1番生々しく、1番最初にある社会だと考えるがどうだろう。
刺激的で、非日常的な夢のような時間の後、自分に父を見出だし、心に何かを抱えながら現実に帰っていく姿を歌う冷ややかさ。
「DARKNESS IN THE HEART」が収録されたアルバム「FATHER'S SON」の発売(1988年3月)は渚園(1988年8月)の少し前とはいえ、当時アンコールのタイミングでこれを入れる選択をしたのか!?という衝撃がある。しかし逆を言えば、この曲を入れる必要があると判断したということ。

 

この世界に生きている人間である以上、どのような立場の人もどこかの社会に組み込まれているものだと思う。いくらどこか違うところへ、遠くへ遠くへ、と願ったところでだ。
渚園という熱狂の後、その場にいた誰しもが心に何かを抱えながら現実の社会に帰っていった。それを示すことができるのは、興奮と冷静のバランス感覚によるもので、正しく理性と呼ぶ他ないのでは。

 

そのために、なおのこと、最後に名残惜しく歌われる「ラストダンス」がより優しく聞こえるのだ。

 


以上までが真面目な話。以下から与太話。

しかし、浜田さん(35)から発せられる肉体のエネルギーが眩しすぎる。ずっと歌うし、走るし、踊るし、心肺機能はどうなっているのか???
肩まわりの充実感が……。ジャケット→ノースリーブ→タンクトップとなっていくごとに目線が引っ張られていくので、Tシャツになってくれたとき堪らず安心した。

とはいえ改めて切ないのは、その88年は私が存在しなかったもので、既に失われていた青春という事実をまざまざと感じたことです。
だからこそ?なおのこと?早く今の浜田さんの姿を拝見して、現代に引き戻してほしいなと思いました。